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「Re-Design」プロジェクト「HOTEL IL PALAZZO」

画像の説明 EpisodeⅡ

建築と共鳴し合うインテリアデザインの試み
– デザインの総合体へ –

1987年暮れから1988年春頃にかけて、「HOTEL IL PALAZZO」という名称が決まったと推測される。
内田氏は、プロジェクトは名前が決まってロゴが決定すると具体的に進むとよく話していたが、ロッシというビジョンが生まれたとき、「そこに集中させる」といった意味で、建築の全体像が決まったところで名称を決めることにしたのではないかと思われる。

イタリア語で邸宅・館を意味する「パラッツォ」。
都市や街という全体像のなかで、ホテルこそが安住の場所というイメージを持っていたのであろう。
全面的にイタリア的なイメージを推し進めるというものではなかったが、ロッシ氏の建築が固まり、名前が決まったことで、イタリアを一つの要素としたビジョンが明確となり、ある意味誰にでも分かりやすくなった。

田中一光氏によるロゴデザイン

1964年の東京オリンピック以降、日本のグラフィックデザインは世界でも群を抜いて高い表現力とクオリティを持っていた。その代表的なデザイナーである田中一光氏がロゴデザインを担当することとなった。
コピーライターには、日暮真三氏。後に「眠れないホテル」や「川の向こうにイタリアが見えてきた」といったコピーが誕生した。

最終的に、田中氏はホテル内のあらゆるグラフィックをデザインすることとなった。ブローシャーやポストカード、メニューはもちろん、ルームキー、アメニティ、ステーショナリー、挙句の果てには宿泊約款やビルまでデザインした。

トータルなグラフィックイメージがつくられ、シンプルながらも揺るぎないロゴと印象的なグリーンの色は、時を超えて古びることもなく、今に受け継がれている。

1989_IL Palazzo logo
1989_IL Palazzoグラフィック

インテリアデザインと家具デザイン

1988年当初の初期的なインテリアイメージのドローイングから、大きくデフォルメされた形状と大胆な色彩が念頭にあったことがうかがえる。デザイナーは内田氏と三橋いく代氏が担当した。
内田氏は「インテリア半分、照明半分」と言い、照明の効果を何より重視していた。気鋭の照明家 藤本晴美氏が室内照明のすべてを手掛けることとなった。

家具はすべて内田氏のデザインである。
普段はスタンダードな家具を思考し、定番として活用することが多かった内田氏であったが、このときのデザインは、初めての試みであり、このときだけのアイテムとなった。
内田氏のデザインは、線材の椅子が主流であったが、あらためて面材のデザインを試み、椅子に存在感を担わせている。おそらく、色彩を使うと決めたときに起こった変化であろう。

内田氏は、ロッシ氏と出会って、二つのことから解放されたと言っていた。
一つは「色彩」で、もう一つが「伝統」つまり「日本」である。かねてから、内田氏のデザインは実に日本的であると言われていたが、本人は釈然としていなかったようであった。
内田氏は、ロッシ氏との出会いとイル・パラッツォをきっかけとして、「日本」をデザインで表現するということにきちんと向き合ってみようと考えたのではないかと思われる。

内田氏、三橋氏は、デザインに用途や機能性を当て込むデザイナーではなかった。
空間デザインを先行し、用途を合わせてもらうということではなく、バーはバーらしく、ロビーはロビーらしく、そこにデザインを被せる。
イル・パラッツォも、ロビーはロビーらしく、レストランはレストランらしく。そこにポストモダンの解釈や色彩、デフォルメの要素をデザインとして入れ込んでいる。

1989_IL PALAZZO家具 14_25
IL Palazzo家具8_25
1989_IL PALAZZO家具 18_25
1989_August chair_Il Palazzoディテール 107_130
March_IL PALAZZO 家具_NO.25-12

デザインの総合体

イル・パラッツォでは、デザインできるものはすべてデザインするという方針だった。
内田氏も田中氏も普通は既製品を選ぶような運営備品にいたるまですべてデザインした。
どんな分野も一流というのは一角の人、信頼して依頼したら、そのすべてを信じるというのが、アートディレクションの極意だと内田氏は話していたという。バーの接客方法、フードとリカーのコーディネート等も一流の人に依頼し、ソフト領域においても完璧を目指した取り組みが行われた。これにより、すべてのハードとソフトが合体した。内田氏が「デザインの総合体」と言ったのは、それが機能し始めた実感があったからであろう。

カルチュア・コンプレックス「ザ・バルナ・クロッシング」

九州最大のディスコを謳い文句につくられたまったく新しいタイプのディスコ。
完成度は高く、話題性に富んでいたが、この空間だけは内田氏がほぼ関与していない。
建築を含めたその他の空間とは一線を画す文脈の上に成り立っており、ある意味、一定の時間が経てば、なくなることが間違いない運命の空間でもあった。

1989_IL Palazzoバルナクロッシング24_44
1989_IL Palazzoバルナクロッシング
1989_IL PalazzoバルナクロッシングJ002

臨界点を超える「4つのバー」という発想

別棟の4つのスペースは、敷地内に設けられた路地に面して用意された同じ面積と形状のスペースだった。
ロッシ氏は、敷地内に世界の古い街には必ずあるヴァナキュラーで人の心をわくわくさせる「路地」という空間をつくりたかったそうである。当初は、そのスペースにいくつかの飲食店を点在させる予定であったが、もっとここにしかないものにしないと臨界点を超えられないのではないかとの内田氏の問いに対する答えが「4つのバー」であった。
異なった4人のデザイナーがデザインするバー。エットーレ・ソットサス、ガエターノ・ペッシェ、倉俣史朗。名だたるデザイナーが候補として挙げられた。最後の一人は、イタリアの巨匠を挙げていたが、ロッシ氏から「内田、オレは最も日本酒をたくさん飲んだイタリア人だ、だからオレに日本酒バーをやらせてくれ」と言われ、それが殺し文句となり、ロッシ氏が日本酒バーをデザインすることになった。

「4つのバー」により、内田氏のなかで、最後のピースが埋まった。
建築、インテリア、照明、グラフィック、コスチューム、料理、サービスと積み上げてきて、最後に残った4つのスペースを埋める最大のデザインテーマ、それがラディカリズムへの問いで完結する。

オープンまで8か月という時期であったが、3人のデザイナーは快諾。スケジュールはギリギリだったが、なんとか滑り出すことができた。あまりに時間のない施工であったが、一流のクオリティを追求し、いずれのバーもオープニングにはギリギリ間に合わせることができた。
できた空間は申し分ないものであった。それぞれの空間は、それぞれ異なる個性豊かな主張をするものであり、4つのバーの名称は、それぞれのデザイナーが名付けた。4つのバーのロゴのデザインは、グラフィックデザイナーの矢萩喜従郎氏に依頼したが、まさに超特急でのデザインであった。

「ZIBIBBO(ズィビーボ)」
 エットーレ・ソットサス

1989_IL Palazzo zi bibbo模型
1989_IL Palazzo zi bibbo10_11
1989_IL Palazzo zi bibbo03_11

「EL LISTON(エル・リストン)」
 ガエターノ・ペッシェ

1989_IL Palazzoエル・リストン模型
1989_IL Palazzo el liston 3_4
1989_IL Palazzoエル・リストン06_10

「OBROMOBA(オブローモフ)」
 倉俣 史朗

1989_IL Palazzoオブローモフ模型
1989_IL Palazzoオブローモフ02_29
1989_IL Palazzoオブローモフ01_29

「EL DORADO(エルドラド)」
 アルド・ロッシ

1989_IL Palazzo el dorado模型4_8
1989_IL Palazzo el dorado02_16
1989_IL Palazzo el dorado5_16

(情報協力:内田デザイン研究所 長谷部匡代表)
(写真協力:Nacása & Partners Inc.)