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「Re-Design」プロジェクト「HOTEL IL PALAZZO」

画像の説明 EpisodeⅠ

HOTEL IL PALAZZO 誕⽣の背景

計画がスタートしたのは、1986年の秋だった。
当時はまだバブルという言葉も認識がなかった頃だが、絶対的な土地神話を背景に、国内の好景気の兆しと土地の高騰を見込んだ投資も進みだした頃である。

福岡市春吉地区を舞台として進められたホテル開発のプロジェクトは、建築単体ではなく、エリア開発のシンボルとして位置づけられた。春吉は、盛り場としての歴史があった場所ということで、好立地ではありつつも、地元住民にとっては、あまり印象の良い地域ではなかった。
ホテル開発は、都市的視点から民間開発を考えるという発想のもとで着想された事業であったが、トータルな街づくり計画のなかで展開されたわけではなく、最初に街のイメージを変えるようなインパクトのあるものを創って、部分から理解を拡大していくというプランで進められた。

はじめに相談を受けたのは、デザイナーの内田繁氏であった。
内田氏は、デザイナーとしての仕事も大切であるが、同時に、アートディレクターの職能こそが重要であると直感し、ある意味、二足の草鞋を履くことを決めたという。

その後、発想した視点とアイデアは、建築から小物のデザインまで、デザインを総合化した開発を実現していくことになる。

内⽥ 繁

内⽥ 繁 Shigeru Uchida (1943 – 2016)

日本を代表するデザイナーとして幅広く世界的評価を受けるなか、各国での講演やコンペティションの審査、展覧会、国際的デザイン企画のディレクションなど、つねにその活動が新しい時代の潮流を刺激し続けてきた。

代表作に、山本耀司のブティック、神戸ファッション美術館、茶室「受庵 想庵 行庵」、ザ・ゲートホテル雷門などホテルの総合的デザインも取り組む。メトロポリタン美術館、М+美術館等に永久コレクション多数。

アートディレクターとしての内⽥繁⽒

内田氏は、三橋いく代氏、西岡徹氏とともに「スタジオ80」という事務所を率いていた。
生活の質が成熟し始めた80年代には企業活動とデザインの距離が縮まりだし、コマーシャルスペースにはインテリアデザインがつきもののようになっていた。
内田氏をはじめとした一部のデザイナーは、コマーシャルスペースをデザインすることは主旨でも目的でもなく、あくまで手段であって、本来はデザインを、人々の生きていく時間と空間に必要なものであり、個性豊かで、希望の持てるものにしたいと考えていた。
「HOTEL IL PALAZZO」には、デザインの意味と価値をきちんと分かるかたちで証明したいという内田氏の強い思いが込められている。デザインには人の意識を動かす力がある。

アートディレクターとして、内田氏が最初に取り組んだのは、「春吉という地域を良質な未来へのイメージに変貌させるという目的意識から見て、都市との関わりをどう考えるか、新たな特徴と印象を持った地域へと先導するにあたり、古いイメージを払拭しつつ、かつての街の持つ文脈軸を大きく外さない方法とは何か」ということであった。
そこで最も大切なのが、何より建築であり、建築のあり方であった。

この計画を理解し、まだ見ぬ造形的ビジョンからその柱をつくってくれる建築家として、アルド・ロッシ氏に依頼した。建築家の選定にはそれほど悩まず、デザイナーとしての直感によるとのことであった。
ロッシ氏は、1931年ミラノ生まれ。公共施設に幾何学的な抽象性を持ちながら、純粋かつ根源的な造形言語で建築の荘厳なる永遠性を見出し、世界から注目されていた。

アルド・ロッシ

アルド・ロッシ Aldo Rossi(1931 - 1997)

建築と都市デザインの分野において大きな影響を与えたイタリアの建築家、理論家。ポストモダン時代の理論をリードする建築家のひとり。

代表作にモデナの墓地(イタリア)、カルロ・フェリーチェ劇場(イタリア)、ボネファンテン美術館(オランダ)などがある。その他にも数多くの大規模プロジェクトを手がけ、多くのコンペティションとアワードを受賞。

ロッシ氏は依頼に対し快諾し、具体的な計画がスタートした。
竣工のほぼ3年前のことである。

内田氏とロッシ氏の最初の対話で取り決めたことは、「もし建築というものにある力があって、デザインというものにある種の力があるならば、それをどこかで証明したい」ということであった。

IL PALAZZO打合せ_photo by Nacasa&Partners
Meeting 37_44_Photo by Nacása & Partners

アルド・ロッシ氏の来日

アルド・ロッシが初めて日本に来たのは、1987 年3 月の中旬であった。
現地に赴き、敷地周辺を対岸や大通りだけでなく、ともかくどんな小さな路地も含め、一日中歩きまわったという。同行した建築家の竹山聖氏は、「ロッシの現地調査は極めて綿密なもので、あらゆる角度から敷地を眺め、歩き、周囲の建築物を調べ、街の匂いを嗅いだ。敷地が川(那珂川)に近いため、川との関係を推し測りながら、対岸にまで足を伸ばして熱心に敷地をめぐる景観をつかまえようとしていた。川沿いに並ぶ博多名物の屋台には、いたって気をそそられたようで、その構造やら出店形態にまで質問を浴びせていた。敷地をめぐりながら、彼は博多の町を必死でつかまえようとしていたのだ。」と書き残している。

ロッシ氏は、その後、京都に2泊ほどしたらしい。
竜安寺や天竜寺を案内されたらしいが、ロッシ氏が執拗に気になって見学を希望したのは車のなかから見えた西本願寺だったという。おそらく大屋根の御影堂を見たのだろう。 実は、これが、HOTEL IL PALAZZOのファサードの原風景になっているらしい。

2度目の来日の際、ロッシ氏はドローイングを持参していた。

ドローイング_photo by Nacasa&Partners_resize
ドローイング2_photo by Nacasa&Partners_resize

この時点ではイル・パラッツォは建築単体ではなく、那珂川に突き出た建築物の連続する風景のなかに存在し、あくまでテーマは周囲を含めた地区開発のビジョンがベースにあったことがよくわかる。その後、何枚も同じビジョンでサイト周辺を描いてたドローイングを残しているが、この時点のロッシ氏にとって、イル・パラッツォは、あくまで都市景観のなかの一部であり、周囲に広がる環境こそが重要であったのだろうと推察される。

また、ファサードのイメージを最初に提示してきたことからも、この計画でロッシ氏が最も大切にしていたのが、都市景観のなかのファサードの存在感であることがよくわかる。那珂川に対して屹立する窓のない強烈な印象を持つファサードに、すべての印象とモニュメンタルな造形の中心を集約させているようである。

このファサードのイメージをもとに、一気に基本設計が始まり、その年の夏(1987 年)には全体像が提示され、秋には左右の別棟を含めた全体模型と最終形のドローイングが完成することとなる。

(情報協力:内田デザイン研究所 長谷部匡代表)
(写真協力:Nacása & Partners Inc.)